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My Little Flyfishing Notebook
僕の小さなフライフィッシング・ノートブック  My Little Flyfishing Notebook

0.0 フライフィッシングをはじめる Starting this Game
 
 
  
0.1 フライフィッシングの定義 The Difinition of fly fishing
 
 
フライフィッシングを、他の釣りと区別するものは何であろうか。僕は五つの特徴を指摘したい。

毛鉤の使用
 第一に、フライフィッシングには毛針を使わねばならない。当たり前のことのようだが、ヨーロッパではこの点は非常に厳格である。この話をする際、僕は西園寺公一の『釣り六〇年』をいつも思い出す。西園寺は、オーストリアの由緒ある川で出入り禁止となるある青年の話を書いている。その青年が出入り禁止となったのは、彼がフライの先に生餌をつけて釣っていたからである。イギリスでも、いわゆる「ロマ」(ジプシー)たちが、釣りクラブ所有の川やビートにおいて、リール竿で餌つりをするのを取り締まる際、かなり強硬な態度で臨むのを見聞してきた。ヨーロッパにおいては、フライフィッシングで毛針を使うというのは、サッカーでは足でボールを扱わねばならないとか、ラグビーではボールを前に投げてはいけないとかいうような「ルール」であり、そこで餌釣りをするのは、スタンフォードブリッジのピッチで野球のスパイクを履いて走り回るようなものである。フライフィッシングというスポーツをたしなむスポーツマンは、毛針を使って釣りをするという原則を絶対に守らねばならない。それは毛針のみの使用を絶対のルールとしない、融通無碍なテンカラとの最大の相違である。
  
 

キャスティング
 第二に、フライフィッシングはキャスティングに特徴がある。一般的な日本の河川では、7フィートから9フィート程度の竿を使うのが一般的だが、どの竿を使うにせよ、重くて太いフライラインなるものをそっと水面に置くには、それなりのキャスティングの技術を持っていなければならない。このキャスティングは確かに難しいものだ。僕は、通常、8フィート2インチ、4番の竿を使っているが、フルラインがでない。10フィートの7番ならたまに出ることがある。その程度の腕前であるが、是非コンスタントに25メートルを投げてみたいと思う。
 もっとも、渓流では7メートルも投げられれば釣りになる。しかし、そこでは正確なキャスティングが必須であり、流れを呼んで毛針が不自然に流れないようなトリックキャストが必要になる。こうした面でのキャスティングの腕前も不可欠だ。もちろん、止水のつりでは遠くに投げられれば投げられるほど有利であるのは当然である。 
 こうした種々の方面からキャスティングの腕前を上げるには、それこそ日々の鍛錬が必要であるが、フライフィッシングをやる最大の楽しみの一つとなる。
  

奥日光湯湖 2005年8月

道具
 第三に、この二つの特徴は、必然的に特別な道具立てを必要とすることがあげられよう。毛針を巻くための道具などはその典型であるし、他のどの釣法にも存在しない特殊なフライラインなるものを用いることもそうだ。それをキャストするための竿にも、こだわり出せばキリがないほどの個性を必要とする。
 
 フライフィッシングは、この三つの特徴を高い次元で融合させるところで成立する釣り方であるといえる。しかもバリエーションや組み合わせは無数にある。釣り人はこれらの無数の選択肢から自らの釣法を確立してゆくのである。

一匹の魚を釣るということ
 これに加え、第四の特徴として、僕は、フライフィッシングは数を釣ることに執着しないものであるという点を、是非とも挙げたい。
 
 このような考えは、「キャッチ・アンド・リリース」という概念が確立されてからの特徴である。フライは餌釣りよりもつれるというのを聞いたことがあるかもしれないが、時と場合においてその言葉は真実である。それなのになぜキャッチした魚をリリースしなければならないのか。数を釣ったらそれを見せびらかすのも「釣り」というスポーツの一部である。それは優勝カップやトロフィーと同じ意味を持つのである。
 
 また「キャッチ・アンド・キル」こそが、あるべき釣りの姿であるという考えに、僕はぜんぜん反対しない。かく言う僕も、間違ってひどい釣り方をしてしまった場合に、むしろその魚をキルして、楽に死なせてやりたいと思うこともある。キャッチしてリリースすることだけが正解だとするのは、魚たちに対しても大きな間違いであることがあると僕は思っている。
 
 しかし、僕がいいたいのは、フライフィッシングが目指すべきは「釣れてしまった沢山の魚たち」ではなく、「自らの戦略でつり上げた一匹の魚」だということである。そういう魚が一匹釣れれば、僕はたいていの場合満足して家路に迎える。その魚が小さくてもあまり関係がない。その後釣り続けて、たとえば40センチのニジマスが釣れてしまっても、僕はそれほど印象深く覚えていない。やっぱり、一生忘れないのは、ある状況下で、最高の戦略制を発揮してつり上げた「あの魚」、英語でいえば「The Fish」である。
 
 そもそも、魚たちは生きるために餌を補食しているのであり、我々はそういった魚たちを自らの毛針でだまして釣り上げているのである。僕は、自らの生命を投げ出して毛針に食いついてくる魚に、それがどんなに小さなものであっても、満腔の敬意を表したい。だから、その一匹を釣り上げるために、こちらもささやかな知恵と工夫を総動員したい。それが魚たちに対峙する釣り師の当然の態度であると思っている。
  

現場であんまりがんばりすぎて蜂に刺されてしまった指。自宅に帰るまで気がつかなかった。
白石川で。2005年8月


鬱血して大変。結局、消防署に駆け込み、切ってもらう。長男撮影。

環境への高い関心
 そのような一匹の魚に対する敬意が、魚たちの生きる環境を保全するという意識を強く生み出すようになるのは不思議なことだ。フライフィッシングの第五の特徴は、環境への強い関心が釣りという行為と同居していることにあると言えよう。
 
 しかし、こんな矛盾した考えはないとも言える。魚たちが生きている環境を最も破壊している要素の一つは、間違いなく我々釣り人だからだ。だから、釣り場を保全したいのならば一番いいのは釣りをしないことなのである。
 
 この絶対矛盾のなかで、我々はこのゲームを楽しんでいる。そういう矛盾に耐えきれず、釣り団体の中には、環境保全に集中しすぎているような団体もあるくらいだ(それはもう釣りクラブではない!)。
 
 しかし、どのような態度をとろうとも、変わらないのは、多くの我々釣り師(という罪人)は、人間の持つ欲と純粋な理想との狭間にあって、常に揺れ動きながら、殺生を積み重ねているという事実である。だから、キルするのは最小限にとどめたい。そして自分ができる最大の努力によって、この美しい魚をはぐくむ自然を守りたい。こういった態度を持たないものは、少なくとも二一世紀のフライフィッシングには全く向いていないように思われる。
  
0.2 僕がフライフィッシングを始めたわけ How I have got started
 

娯楽=再創造
 もっとも、僕がフライフィッシングを始めたのは、以上のような理由からではない。僕は単に「娯楽」を求めてこの釣りを始めた平凡な人間である。そしてその過程で、様々な人から影響を受けて、以上のような考えを持つようになったのである。
 しかし、少しだけもったいぶっていわせてもらえば、「娯楽」という日本語は、あまりよろしくないと思う。英語でRecreationというのが少なくとも僕の趣味に合う。もちろん、その意味は「再創造」である。僕の場合、娯楽は気晴らしではない。それはまさに人生を「再創造」する手段である。

釣りの記憶
 しかし、幼い頃の僕は釣りが嫌いだった。僕の記憶にある人生最初の釣りは、もういくつの頃か忘れたが、父のお供をした、地元福島県北部の阿武隈川の橋の上からの夜釣りだ。そのころ家にあった短い竹できたリール竿(たぶん手作りだったのだろう)の穂先に小さな鈴をつけて、大きな団子をつけた大きなハリをグイッと投げて、あとは鈴が鳴るのを待つだけの釣りだった。たぶん父は鯉でも釣っていたのだろうと思う。
 
 僕は、そのとき魚がつれたのかどうかも覚えていない。僕が覚えているのは、橋の上を、ヘッドライトを光らせながら猛スピードで行き交う無数の車であり、そのたびにぐらぐらと橋が揺れたことだけだ。僕は正直釣りどころではなく、その無数の車におびえていた。また、そのときに、よくわからない種類の無数の虫が、行き交う車に踏みつぶされて猛烈な異臭を放っていたこともよく覚えている。後年、当時の阿武隈川はアミメカゲロウの大量発生で悪名高かったことを知るのだが、あれは間違いなくカゲロウの大群だった。いずれにせよ、僕にとっての釣りとは「怖くて臭いもの」だったのである。

学生時代とブラックバス騒動
 そんな僕が釣りを本格的に始めたのは、大学院に入ってからのことだから、1993年頃である。そのときの僕がねらっていたのはブラックバスだった。それからルアーやベイト、ジグなどを買い込み、ラッキークラフトの竿も購入した。年間10回程度の釣行だったがそれから10年近くそれなりにバスフィッシングを楽しんでいた。
 
 そんなときに、もう忘れられてしまった感があるが、例のブラックバス騒動が起きた。ともかく、僕はその騒動の中でもうバスをつることができなくなるのではないかと思っていた。事実はそうではなかったのだが、そのころから、僕は対象魚をブラックバスから鱒へと変えようと思いはじめ、ついでに周りではだれもやっていなかったフライフィッシングをやろうと思い始めていた。
 
 それを決定的にしたのは、今の大学への就職である。これでやっと中期的な生活の目標ができた。34歳の時である。給料がでるというので、フィッシングパルズという埼玉のプロショップで中古の竿を買い、ヤフオクでフルーガーメダリストを購入、それで田代法之さんのtiemcoのスクールに行った。 
 
 
そのときの写真。田代さんは最も尊敬するアングラーの一人。
2004年3月@Fish Oh!鹿留
 しかし、それからはじまった初めての大学教員生活は、理想とは大きく異なるものであった。今の大学教員の生活は一昔前のそれとは比べものにならないほど忙しい。安定した生活を前提として研究がしたくて、必死の思いで職を得たのに、最初の4年間は本当にきつかった。

 あの頃のことは、とても簡単には文章にできない。

 でもこれだけは言える。そのころ、僕は文字通り竿を持って川に行くことで、日々の仕事の中で研究時間のとれない矛盾に埋没しそうな自分を「再創造」していたのだと。 そして、今の僕は、少しだけ人生を楽しむ余裕ができて、子供やクラブの仲間とのんびりフライを投げることもできるようになっている。

家族や友人に本当に感謝してこの釣りを楽しんでいる自分が好きである。僕のフライデビューは、2004年3月のFishOh鹿留である。僕は、この日のことを、たぶん一生忘れないだろう。
to be continued......